柑橘類さんのブログ

ひなろじを見たりします

【随想】不思議な場所の子どもたち:ユーミン、カラパレ、ホールデン  

 小さい頃、近所の林の中に秘密基地を作っていた。ある放課後、いつものように林の入り口に自転車を付けると、あたり一面は除草され、林の木々もかなり伐採されていることに気が付いた。緊張が走った。祈るような気持ちで林の奥へと進むと――不思議なことに――秘密基地のあたりだけは手つかずのまま残されていた。ラッキー! と思った。と同時に、晴れやかな自信が湧いて来もした。なにせ「秘密」基地なのだ! ちょっと見に来ただけの大人にバレるはずがないではないか!  
 今になってわかるが、すべてそういうものだったのだ。扉のすぐ向こうに置いたのになぜかバレなかったサプライズプレゼントも、欲しかったゲームを偶然持っていた両親の友人も、農業用水路に転落したあと誰も見ていなかったはずなのにいつの間にか設けられていた柵も。ぼくたちが経験した不思議は。そうした不思議をいちばん美しい日本語で表現したのは、きっと荒井由実だろう。「小さい頃は神さまがいて 不思議に夢をかなえてくれた」。  

荒井由実 - やさしさに包まれたなら (from「日本の恋と、ユーミンと。」)

 神さまを予感させるあの不思議――それは今なら、大人たちの「やさしさ」だったのだと理解できる。けれどそう気づいたとき、私たちの世界からあの不思議は永遠に消えてしまった。不思議とはやさしさだったが、やさしさは不思議ではないのだから。しかしそれでもユーミンは、あの不思議を取り戻せるかもしれないと歌っている。大人たちの「やさしさ」ではなく、あるいは木洩れ陽、あるいはくちなしの香りの「やさしさ」を通じて。木洩れ陽とくちなしの香りの共通点、それは、視覚か嗅覚かの違いこそあれ、どちらも私たちの経験の「全体」を包みこむところにある。そうしてまさしく「全てのこと」が、私たちに違った表情を見せるようになる。今や世界は――大人のやさしさによってではなく、本当の奇跡によって、私たちを自然と導く場所となる。そこで私たちは再びあの不思議と出会うだろう、ユーミンを信じるならば。
 

 もちろん、そんな不思議な場所は本当はどこにもない。しかしどこにもない場所ユートピアは、どこにもないからこそ、歌われもし描かれもしてきた。そうした想像力のひとつの結晶を、アニメ『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』(『カラパレ』)の中にも見てとることができる。この作品は、架空の惑星の海中にある村「パーレル」を舞台に、マーメイドの少女たちの日常と成長を描いた傑作だが、ここでとりあげたいのはむしろ欠点とも言えるポイントだ。本作は、キャラクターの感情の推移や物語の展開にかんして全体としては非常に丁寧作られているのだが、それだけに、作中に(少なくとも)2度ある一見「ご都合主義的」な展開が目を引く。具体的に見ていこう。

 まず4話。マーメイドの少女セレナは、パーレル村の古い映画館にある壊れた映写機を直そうとしている。精密機械であるから闇雲に触れるのは避け、マニュアルを丹念に読んで問題点を探るがうまくいかない。そんな折、セレナは近所の子どもの洋服のお直しをすることになるのだが、参考書を見ながら作業を進めてもやはりうまくいかない。しかし、姉妹であるフィナの大胆な発想の助けでお直しは無事成功する。これに感化されたセレナは、映写機も思い切って一度解体してみようと決意する。いざ作業に乗り出そうとしたとき、勢いづいたセレナの尾がたまたま映写機にぶつかってしまう。すると、その衝撃で映写機は直ってしまった。パーツが微妙にずれていたのだ。

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映写機にぶつかるセレナの尾
 次に9話。パーレルに映画の撮影隊がやってくる。印象的な光をラストシーンに撮りたい撮影隊の思いとは裏腹に、撮影当日は村の上方に大量のイワシが停滞し、太陽の光が海底まで入ってこない。このことにマーメイドの少女キャロは責任を感じていた。というのも一つには、前日に作ったてるてる坊主がひどい出来だったから。そして何より、映画に端役で出演することになっていたキャロはNGを連発し、撮影日程を大幅に遅らせてしまっていたからだ。悪天候のなか映画館でふさぎ込むキャロだったが、何もせずにはいられず、無謀だと知りつつ自ら突撃してイワシを蹴散らそうと決意をする。いざ映画館から外へ飛び出そうとしたとき、勢いづいたキャロの尾がたまたまそばにいたカワウソにぶつかってしまう。カワウソはそのまま吹き飛び、映画館の天井に激突、天井には穴が開く。するとその穴から室内の光が外に漏れ、その光がイワシに反射することで、あたりは幻想的な光に包まれる。こうして撮影は無事終了したのだった。
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カワウソにぶつかるキャロの尾

 この2話の展開は非常に似ている、というより完全に同じである。
(1)あるキャラクターが解決すべき問題が発生する。
(2)そのキャラクターは精神的な成長を遂げ、問題解決のために新たな行動をとろうと決意する。
(3)その行動を実行に移そうとすると、まったくの偶然が介入し、実際に行動するまでもなく問題が解決する。
 これが「ご都合主義的」に見えるのももっともだ。キャラクターの内面的成長と問題解決が論理的に結びついておらず、問題はたまたま解決されているにすぎないからだ。

 だから物語の論理性を重視するならば、この2話は失敗していると評価されるだろう。けれど、2つの展開があまりにも似すぎているので、ここに何か積極的なメッセージを読み取ってみたくなる。1度起こったことは偶然だが、2度起こることはリアルなのだ。ここには、何か論理よりも描きたいものがあったのではないか? 

 そうして私たちは、あの「不思議」にまた戻ってくる。私たちがいつか気づいたように、不思議とは大人たちのやさしさのことだった。けれどもユーミンは、さらにその先にあるものを歌おうとしていた。それは、誰かの力ではなくて、世界自身が、本当の奇跡によって、私たちを自然と導くような場所。本当はどこにもないけれど、歌われ語られ描かれる、そんな不思議な場所だった。きっと、映写機を解体してしまったなら、それは二度と元には戻らなかっただろう。けれど、セレナは今やとらわれない心を手に入れたのだから、世界のほうがそれに応えてくれる。きっと、イワシの群れに突撃しても、村に光を取り戻すことはことはできなかっただろう。けれど、キャロには真っ直ぐな思いがあるのだから、世界のほうがそれに応えてくれる。そういうやさしい世界からの応答は、私たちの目には単なる偶然に、非論理的に、そして奇跡に見えるだろう。けれどそれでいいのだ。パーレルは不思議な場所ワンダーランドなのだから。

【OP先行公開】バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~ ♪ Wonderland Girl/Pastel*Palettes【ヴァンガード公式】

 
 世界に手を差し伸べられる経験を歌おうとしたのがユーミンなら、手を差し伸べる世界のことを切実に語ったのはきっと『ライ麦畑』のホールデンだろう。子どもたちが崖から落ちそうになればそれを捕まえ、そしてそれ以外は何もしない。そんなライ麦畑の捕まえ手にしかなりたくないと言ったホールデンは、単にやさしい大人になりたいと言ったのではない。何千もの子どもたちが遊ぶライ麦畑、大人は自分以外誰もおらず、その自分はといえばただ危ない崖を見張っているだけーーここでホールデンはもはや一人の人間ではなく、むしろ世界の輪郭線だ。ライ麦畑のイメージは、あのやさしい世界、不思議な場所そのものになりたいという夢想なのだ。だから私たちが思わず「パーレルになりたい」と思うとき、私たちはきっとホールデンなのだ。架空の村になりたいという願望はどこからどう見ても完全に馬鹿げて(crazy)いるが、ホールデンだってまさにそう言っていたじゃないか。「馬鹿げてることは知ってるけどさ」。


ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)


 『ライ麦畑』のラストシーン、ホールデンはフィービーがメリーゴーランドに乗る様子を眺めながら、幸福感に満たされている。メリーゴーランドの描く運動は円であり、それはもちろんギリシアの昔から、永遠を象徴していた。円は星々の軌道であり、星辰の領域はまた神々の領域でもあった。あのメリーゴーランドには、永遠に子ども的なものへのあこがれがある。ホールデンと同じ幸福を私たちは、『カラパレ』のOPを観るときにも抱くことができるだろう。ちょうどサビの部分(0:58-1:06)、マーメイドの少女たちは、パーレルの象徴と言うべきあの映写機の回りを楽しそうに泳いでいる。彼女たちは自分でもくるくると回転しているから、そこには公転と自転があるとさえ言える。わずか8秒のまたたくまに、幾重にも永遠化された子どもたちがきらめいている。

 ただ、メリーゴーランドを眺めるホールデンは、ライ麦畑の捕まえ手になりたいと言っていたホールデンとは少し違っているーー子どもが「落ちる」ことに対する感覚が。木馬から身を乗り出すフィービーを見つめるホールデンはーーきっと雨に打たれているからだろうーー十分に冷めている。「落ちるときは落ちるんだけど、なんか言っちゃいけないんだよ」(If they fall off they fall off, but it's bad if you say anything to them)。彼はもう「馬鹿げて」はおらず、そのかわりここにはひとつの諦めがある。フィービーはメリーゴーランドから落ちるかもしれない。誰もライ麦畑の捕まえ手にはなれないのだから。そしてその永遠の子どもの回りから落ちるとき、フィービーはきっと大人になる。しかしそれはそういうものなのだ。だからもちろん、パーレル村の5人のマーメイドたちもーーゆっくりとではあるけれどーー大人になって、そしてパーレルを出ていってしまった。しかしそもそもアンデルセンからして、人魚に永遠はないと言っていたのではなかったか? 子どもが永遠ではないことをホールデンは受け入れている。しかしだからこそ、その永遠を表現しようとする円の運動がたまらず美しいのだ。
 
 私たちはもう大人だから、そのやさしさによって、この世界を子どもたちにとって少しだけ不思議な場所にすることはできるだろう。けれど、ライ麦畑の捕まえ手にはなれない。自分ではどうしようもないものに対すべき態度、それは祈りだ。今日も私たちは、あのどこにもない不思議な場所のことを思って祈っている。