柑橘類さんのブログ

ひなろじを見たりします

【随想】白山の女の子の思い出

 上越線で白くなるのは夜の底らしいけれど、ほくほく線の車窓から見える景色は天から地まで完全にホワイトアウトした。視界を奪われた快速はゆっくりと減速して、鉄の歯が木を食む音はついに消えた。車両は異様な静寂に包まれて、駅員さんのアナウンスがぽつりぽつりと聞こえるだけだった。ぼくは読みさしていた吉本の『ハイ・イメージ論 II』を取り出し、パラパラとページをめくって平静を装ったけれど、このときああ、やっぱり石川からは絶対に出て行こうと思った。つい先ほどまで見ていた東京の景色と比べたとき、ここはあまりに人のいるべき場所ではなかった。

 これはその日なんとか金沢駅にたどり着いたあとのちょっとした話なのだけれど、感覚を遮断された人間には幻覚が生じると言うから、もしかしたら何もかも何かの勘違いだったかもしれない。


 金沢駅には自動改札がない。あの街に入るには駅員さんに面と向かって切符を渡さなければならない。ぼくはこの前時代的なシステムが本当に嫌いだった。あの人はあそこを通る乗客の顔をすべて憶えていて、誰がいつここに来て、出て行き、そしていつ戻ってくるのかをぜんぶ知っているからだ。しかしぼくたちは誰知らずどこかへ行ってよいし、いつのまにか帰ってきていい。小さい頃、4軒隣にあった大きめの一軒家から一夜にして人が消え、ぼくも古い友人をひとり失ったけれど、そのことよりも、大人たちが「夜逃げ」、「倒産」などの単語を発するときの人工的なヒソヒソした声色がたまらなく嫌だった。2本向こうに住んでいた奄美出身のおばちゃんは、ぼくに南国の不思議な食べ物の味を教えてくれた恩人で、あるとき夫に先立たれて実家に帰ったのが、いつのまにか戻って来ていた。けれどそのことにしばらく気づかなかったほどに、まわりの人々は以前と同じような近所づきあいを明らかに避けていた。ここでは人の目が支配する。自動改札機は自由のシステムだ。

 改札を抜けて右手から出ると、そこはもてなしドームの内部だ。観光案内所や地下街への入り口、バスやタクシー乗り場を、巨大なガラス張りのドームが包みこんでいる。内部から空を見あげれば、もし珍しく天気が晴れているなら、太陽光がキラキラと反射して美しい。ドーム入り口にある巨大な木製の門、鼓門と共に、この巨大建造物は金沢のハコモノ行政の典型と嘲り笑われていたけれど、ぼくはこれは嫌いではなかった。なんとなく都会っぽい気がしたからだ。ただ、これは後から気づいたのだけれど、この都会感の大部分はそのガラス張りが京都駅に似ているというところから来ていた。地方都市はその都市としての魅力を、もっと大きな都市との類似度で測られる。金沢だって、若者向けのファッション店が多い竪町は実質原宿で、109がある香林坊は実質渋谷、すぐ近くの片町交差点は実質渋谷のスクランブル交差点だ。もっとも、109は最近潰れたらしいのだけれど。

 喉が渇いていたのですぐバスには乗らず、左手にあるスターバックスに入った。現代日本では精神における田舎者の地位を捨てるために「スタバで注文する」という通過儀礼をクリアしなければならないとされている。ここはぼくがこの儀式を通過した思い出の店だ。駅前スタバのすぐ隣にはファッションに強いビル金沢フォーラスがあって、その日も若者がたくさん吸い込まれていた。フォーラスはこの辺では一番キラキラした場所で正直あまり近寄りたくなかったけれど、イオンシネマタワレコが入っていたのでときおり不法侵入者にならざるを得なかった。映画館といえば、駅から少しいった此花のあたりには駅前シネマというかなり古風で尖った映画館があって、近くの本屋に行くたびにいつも気になっていたのだけれど、年齢の問題があってついに入ることがかなわなかった。もしまた金沢に行くことが(帰ることがではない)あったなら寄りたい場所ナンバーワンだ。

 それはともかく、コーヒーで一息ついたあと、目の前のバス停に向かう。金沢は観光都市なので街中にバス網が張り巡らされており、だいたいどのバスに乗っても、中心部である香林坊までは行く。「あ、香林坊っていうのは金沢で一番おしゃれなところです」。多くの路線が渋谷に乗り入れているようなものだ。自分も香林坊でいったん降りる用事があったので、終点などとくに気にすることなく、「香林坊」の表示を見て適当なバスに乗った。ちなみに北陸でバスや鉄道に乗るさいに使用する交通系ICカードは「ICa」(アイカ)という。ぼくは『ARIA』の藍華・S・グランチェスタさんが大好きなのでこのカードの名前が気に入っていた。バスが出発して数分、めいてつエムザを通過したあたりまでは記憶があったのだけれど、列車停止の一件で精神的にかなり消耗していたのもあって、駅前の見慣れた風景に安心して完全に眠りについてしまった。案の定、バスは香林坊を通過し、家とは逆方向に進んで行った。なんとか目覚めたときにはあたりはすっかり知らない風景になっており、それに気づくが早いかとにかく急いで停車ボタンを押す。金沢のバスは後ろ乗り前降りで、降りるときには運転手さんに対して、語尾をあげる独特の発音で「ありがと〜」と一礼する習慣が結構広まっている。ぼくはこれがとても好きで、今でも前降りのバスに乗るとつい口走ってしまうくらいなのだけれど、この時は流石に焦っていて、会釈もせずに車を飛び出した。見知らぬ駅前だった。停留所名は「松任」。松任谷由実の「松任」とは違って「まっとう」と読むその名前は馴染み深かったけれど、実際にここに来たのは初めてだった。松任駅金沢駅から見て、西に3つ向こうの駅にあたる。バスはいつのまにか金沢から飛び出して、となりの野々市をまたぎ、白山市にまで来ていたのだった。

 自分にとって白山は、いるべきでない場所の象徴だ。この町に来たのはこの時が2回目だった。1回目は、実家にいるのがつらくなり真夜中に家を飛び出して海を見に行こうとしたとき。その頃よく聞いていた中田喜直の歌曲集の中に、寺山修司作詞の曲があって、悲しくなったときは海を見に行くと歌っていた。人生の悲しみは有限だが、海の悲しみは無限だからだ。金沢市内には金石海岸という海水浴場があり、そこへ向かうためには金沢駅から見て北西に進めばよかった。ところが当時のぼくは駅より西側の地理感覚がほとんどなく、また地図をゆっくり調べて進む心の余裕もなかったため、がむしゃらに自転車をこいでいるうちに南北を間違え、南西に向かって延々と走ることになってしまった。まったく見覚えのない景色の連続は、はじめは気分を高揚させていたけれど、看板に「白山」の文字が見えた瞬間、自分があきらかに知らない町の夜の最中にいることが急に不安になって、それ以上前に進むことができなくなった。来た道をまっすぐに引き返し、日付もとっくにかわったころ実家に戻ると、居間の電気がまだついていたので、塀から植木を伝って2階の窓から自分の部屋に直接入った。家を飛び出す時は必ず窓の鍵を開けていたのだ。最小の音量でラジオをつけ、息を潜めてベッドに入る。こんな夜でも、お気に入りのDJはいつものように楽しいトークを聴かせてくれた。

 そして今回もまた間違えてこの場所に来てしまった。松任駅から電車で金沢に戻ってもよかったのだけれど、もう今日は電車には乗りたくなかったので、反対側のバス停に行って時刻表を確認すると、待ち時間は30分ほどだった。自販機で暖かいコーヒーを買って手を暖めながらバスを待つ。当たり前すぎて書いていなかったけれど、この日も雪がそこら中に積もったままの寒い日だった。しばらくすると後ろからシャリ、シャリ、と雪を踏む音がして、誰かがとなりに座った。自分が爆睡してバスを乗り過ごし逆向きのバスを待っているだなんてことは、この人はもちろん知る由もないのだけれど、ぼくはそれでもたまらなく恥ずかしく、そちらに目もくれずバッグから吉本を取り出して読んでいるふりをした。しばらくしてやってきたバスに乗り込み、一番後ろの座席に座って振り向いた時、後ろに並んでいたのは中学生の女の子だったとわかった。制服を着ていた。もう夕方になっていたから、学校帰りだろうか、でもそれには少し早い気もした。

 それで、唐突にこの話はもう終わりなのだけれど、それからバスは金沢に戻って行く。ようやく香林坊についたときその子はぼくより先に「ありがと〜」と言いながら降りて、片町のほうへ小走りで進み出した。ぼくの進路は別方向だったのだけれど、なんとなくその子が気になって目で追っていたら、109前の交差点で止まって、その時はじめて見えた横顔が、ちょっとびっくりするくらいニコニコしていた。ああきっとこの子は、この街を透かして、もっと遠いところを見ているんだと思った。それでぼくはこの小さな東京を、それと同じくらい小さくなら、肯定してもいいと思ったのだ。