柑橘類さんのブログ

ひなろじを見たりします

恐るべき独占企業としてのタコ:『MUTEKING』とタコの2つのイメージ

はじめに

 (「ステキングのテーマ」が流れ始める)

¡Hola!オラ 柑橘類です。素晴らしく美しい5月、みなさんはいかがお過ごしですか? ぼくはツバメやスズメバチが連日闖入してくる部屋に引っ越し、大変にぎやかに暮らしています。自然最高!!



「ヘビの模型を見せると逃げる」などの非人道的なアドバイスが満載


突然ですが、2021年秋クールに放送され、全世界フロアを熱狂させたアニメ『MUTEKING:THE Dancing HERO』をみなさん当然ご存知かと思います。万が一まだ見てない人はなんと今からでも見られるんですね〜。
animestore.docomo.ne.jp

さて、昨年末〜今年頭は『MUTEKING』の見過ぎで生活が完全に破壊されてしまったのですが、その果てに生まれたエッセイを以下に公開します。タコが西欧でどのようにイメージされてきたか、またそうしたイメージと『MUTEKING』がどう関係しているかを調べて書いた一本です。『MUTEKING』にあまり関心がない人も(そんな人いる?)、タコやサンフランシスコに関心がある場合は(そんな人いる?)それなりに面白く読めるのではないかと思います。

なおこのエッセイはもともと、同人誌『WE LOVE MY HERO!!!』(ゆづる/#7FBEEBの海 2022)に寄稿したものです。Web公開にあたり加筆修正し、また私の責任で画像を追加しています。書いたものがインターネット上に公開されていないと気がすまない何でもインターネット果実人間のわがままを受け入れ、比較的早い段階でのweb公開を快く許してくださった、上記同人誌主催のゆづるさんに感謝いたします。

恐るべき独占企業としてのタコ


  • お前は生物というより仮面である ——ミシュレ『海』



タコ! それはアニメ『MUTEKING』を妖しくも美しく彩るイメージだ。タコ(octopus)と墨(ink)から名前をとっている巨大企業「オクティンク」(OctinQ)を筆頭に、作品にまつわるモノ、コト、その多くにタコにまつわる要素がからみついている。作品全体に散りばめられたタコ要素は、一方では世界観を統一する役割をはたすと同時に、他方では隠されたタコを探しだす楽しみを私たちにあたえてくれる。

 タコにあふれる世界を支えているのが「オクティアン」という設定だ。オクティアンとはタコ型の宇宙人で、オクティンク社のCEOであるセオをはじめ、登場人物の多くがこの宇宙人だったことが作品終盤で明かされる。タコ型宇宙人をフィーチャーしているからこそのタコ要素なのだ。

 タコ型の宇宙人は創作ではおなじみのイメージだ。もちろん『MUTEKING』はこの設定を、初代『とんでも戦士 ムテキング』(1980–1981)から直接受け継いだ。しかしさらに遡れば、このイメージは19世紀の小説、H. G. ウェルズの『宇宙戦争』(1898)にまで行きつく。100年以上続くタコ型宇宙人の伝統、その令和最新版が、セオたちオクティアンだ。

 だが、セオやオクティンク社を、タコにかんする別のイメージの伝統のなかに置くこともできる。セオは宇宙人であると同時に実業家であり、オクティンク社は宇宙人の侵略拠点であると同時に巨大独占企業だ。そして実はタコには、やはり19世紀以来、恐るべき独占企業の象徴として描かれてきた歴史がある。さらにこのイメージは、米国カリフォルニア州サンフランシスコ、つまり『MUTEKING』の舞台であるネオ・サンフランシスコのモデルとなった街と、偶然にも深い縁がある。

 「宇宙人としてのタコ」と「独占企業としてのタコ」——共に19世紀に生まれた2つのタコ・イメージの交差点に、今、『MUTEKING』が立っている。このエッセイでは『MUTEKING』をさらに楽しむために、「独占企業としてのタコ」の歴史を簡単に振りかえってみたい。実在の人々を脅かしてきた巨大な「タコ」について知るとき、私たちはネオ・サンフランシスコを脅かすオクティンク社の恐怖をさらに深くあじわうことになるだろう……

悪魔の魚?

 タコは英語では「悪魔の魚」(devil fish)と呼ばれ西欧では昔から恐れられてきた——という話を耳にしたことがある人は少なくないと思う。だが、これは偽の歴史である

 元々、沿岸部以外のヨーロッパの人々は、日常生活のなかで実物のタコに接する機会があまりなかった。沿岸部の人々はそれなりにタコに親しんでいたが、様々な伝説や迷信の影響もあり、タコの生態は詳しくは知られていなかった。イメージの話としては、たしかに好色、狡猾、怠惰、醜悪といったネガティヴな要素と結びつけられることもあったが、他方では慎重さや分別といったポジティヴな要素と結びつけられることもあったし、聖なるものとして捉えられることもあった。そしてなにより重要なことだが、タコが恐怖の対象となり恐れられる、ということはほとんどなかった(Caillois 1973[2019])。

ミケーネ文明の壺(紀元前1200〜1100)。古代ギリシアではタコは装飾モチーフとしても人気だった。


恐怖の創造

 悪魔のごとき恐るべきタコ——そのイメージは19世紀になって、1冊の小説によって突如として生まれた。その1冊とは、『レ・ミゼラブル』で知られるフランスの小説家ヴィクトル・ユゴーが1866年に発表した、『海に働く人びと』(『海の労働者』)だ。この小説には主人公が洞窟でタコと戦う場面があり、そこでタコは、サタンに相当する恐るべき存在として描かれている。その描写の徹底ぶりたるや、小説の本筋から離れ、タコがいかに恐ろしいかを説くためだけの1節があるほどだ。

 タコを悪魔化するために、ユゴーは特に吸盤に注目している。人間が吸盤からタコに飲みこまれ、混ざり合うというイメージによって恐怖心を煽ろうとするのだ。

 爪、それは動物があなたの肉のなかにはいってくるのであり、吸盤、それはあなた自身が動物のなかにはいっていくのだ。あなたの筋肉はふくれあがり、神経線維はよじれ、皮膚はけがらわしい押しつけのもとに裂け、血はほとばしり出て、恐ろしくも軟体動物のリンパ液と混り合うのである。〔……〕トラはあなたを貪り食べることしかできない、がタコは、身の毛もよだつ! あなたを吸い込むのだ。タコはあなたを自分のほうへ、自分のなかへ引きつける。そしてあなたは縛られ、粘らされ、無力になって、怪物たるその恐るべき袋の中で、ゆっくりと空っぽにされていくのを感じるのである。

 生きながら食べられる、その恐怖をこえて、生きながら飲まれることには、説明できないものがある。(Hugo 1866[1878], 一七六–一七七頁)

 ユゴーの描くこの恐怖のなかに、『MUTEKING』ファンなら、人をとりこみ黒墨化するオクティンク社の恐怖の遠い先祖を見つけるだろう。そしてさらに注目すべき点がある。ユゴーは、タコが吸盤を自由自在にあやつることに着目し、これをピアニストがあやつる鍵盤になぞらえるのだ(一七三頁)。鍵盤で人を飲みこみ溶かすタコ——もしかしてユゴーは『MUTEKING』を見ていた……?

 ともあれ、当たり前だが、実際のタコにこのような恐るべき力はない。事実というより豊かな想像力によって、一夜にしてタコは悪魔となったのだ(タコは英語で「悪魔の魚」と呼ばれていると言いだしたのもユゴーらしい)。『海に働く人びと』は飛ぶように売れ、恐るべきタコのイメージも瞬く間に広まっていった。

ユゴー本人によるタコの絵(1866)。怖いね。


タコ、サンフランシスコへ

 恐怖のタコはすぐに大西洋を渡りサンフランシスコにも到着した。そのイメージの広がりを、主に地元紙の調査から追跡した研究がある(Stangl 2016)。これによると、「悪魔の魚」という単語が紙上に初めて登場するのは1867年1月10日、イタリア料理店にタコの死骸が吊るされていると報じた記事だ。記事はユゴーを引用しつつ、「〔タコの〕姿を見ていると、穢らわしい怪物の冷たく湿った触手が喉を締めつける思いがする」としている。

 タコが恐ろしい存在になると同時に、逆に、恐ろしい存在がタコとしてイメージされるようになった。同年1月28日の記事では、人を経済的に苦しめる米国首都ワシントンD.C.が早速タコとして描かれている。これ以降、さまざまな恐るべきモノ、コトが続々とタコ扱いされはじめる。独占企業、政府、政党、政治家、買い物客、宗教団体、地元書店を脅かすデパート、教会を脅かすビジネス活動、マラリア……(Stangl 2016, p. 351)。

 ここでようやくタコと独占企業のつながりが見えてきた。しかしその話に移る前にもう一つ見逃せないのが、『MUTEKING』では活気ある「ドラゴンストリート」として描かれた「中華街」が執拗にタコ扱いされていた事実だ。中華街はゴールドラッシュ以来サンフランシスコと共にあったが、1860年代後半頃から人口的にも面積的にもまた産業的にも大きく発展しており、サンフランシスコ市民にはこれを脅威だと捉える人々もいた。地元紙には「中華ダコ」、「モンゴリアン・オクトパスが街に触手を伸ばし締めつける」などの見出しが踊った(Choy 2012, pp. 29–35; Stangl 2016, pp. 354–355)。

 中華街が執拗にタコ扱いされた理由のひとつは、明らかに、アジアの人々に対する偏見だった。だが同時に、「街の一部の区画が徐々に勢力を拡大している」という事態は、タコが触手を伸ばすイメージとぴたりとハマっていると言わざるを得ない。『MUTEKING』のネオ・サンフランシスコでも、オクティンク社の影響を受け暗黒化した区画が徐々にその勢力を拡大していく。その様子は、触手を伸ばす恐るべきタコに重なるのだ。

サザン・パシフィック鉄道

 独占企業の話に入ろう。サンフランシスコで特に激しくタコ扱いされた企業、それが巨大鉄道会社サザン・パシフィック鉄道だった。この会社は、カリフォルニアで鉄道輸送にまつわるあらゆる富と権力を独占していた。鉄道事業には税金が投入されていたこともあり、独占に対する人々の反発は非常に強かった。とくに、鉄道敷設のために土地を囲いこまれた農民たちは、長年にわたりこの鉄道会社と衝突を繰りかえしていた(Brown 1991, Chap. 3)。

 農民たちと鉄道の争いは、アメリカン・ドリームの矛盾そのものだった。自ら耕した土地で家族や仲間とともに農園を営み独立した生活をおくる、それは広大な「フロンティア」を抱えたアメリカの約束だった。しかしその一方で、自らの才覚一本で勇敢に市場経済に飛び込み莫大な富を築き上げること、それもまた、アメリカの夢のひとつのカタチだった。

 サザン・パシフィック鉄道は1879年から地元紙でタコ扱いされはじめる(Stangl 2016, p. 357)。そのなかから出てきた有名な風刺画が、1882年に描かれた「カリフォルニアの災い」だ。この絵では、「RAILROAD MONOPOLY」(鉄道独占)の文字が刻まれた巨大なタコが、農民や船(海運業)、またドル袋を触手で捉えている。ほとんど説明不要のインパクトをもつ一枚だ。

ケラー「カリフォルニアの災い」(1882)
 ただ、一点だけ説明させてほしい。左下に墓が見えるだろうか。これは「マッセルスローの悲劇」の犠牲者の墓だ。1880年カリフォルニア州マッセルスローで、土地契約にかんする争いの果てに銃撃戦が生じ、農民側で5人、鉄道側で2人が死亡した。カリフォルニア全土を震撼させる大事件だった。

フランク・ノリスの『オクトパス』

 この事件をモデルに、カリフォルニアでの農民と鉄道の争いを描いた小説がある。タイトルをずばり『オクトパス』。1901年に発表されたこの小説は、「独占企業としてのタコ」のイメージを決定的なものにした。著者のフランク・ノリスは主にサンフランシスコで活動した人物で、短い生涯のなかでこの街やカリフォルニアを舞台とする物語をいくつも残している。

 『オクトパス』が本文で「オクトパス」という言葉を使っている箇所は実は2つしかない。1箇所目は、さあ物語が幕を開けるぞという第1章の末尾、そして2箇所目は、すべてが終わってから物語全体を振り返る最終章だ。ここからもわかるように、この言葉はここぞという時を選んで使われており、それだけに読者の印象にも深く残る。ここでは、第一章の方の使用例を具体的に見てみよう。そこで主人公のプレスリーは、農場の羊たちを残酷にも轢き殺していった機関車のことを思い出している。

 突如プレスリーは、今度は想像のなかで、あの駆け抜ける怪物を見た。地平から地平へ飛び回る、赤い一つ目の、鉄と蒸気の怪物。それは今や、あらゆる谷間に雷鳴を轟かせ、行くところ血と破壊をもたらす恐ろしい巨大な力の象徴に見えた。大地をつかむ鉄の触手の化物、魂なき力、鉄の心臓を持つ動力、怪物、巨像、オクトパス。(Norris 1901, p. 48)

 この強大なオクトパスとの戦いが、今後小説の中で描かれていくことになる。その戦いの行方はみなさん自身に目撃してもらうとして(邦訳もあります)、ここで注目したいのは、今の引用でタコ扱いされているのは、鉄道会社というよりも、むしろ鉄道そのものだという点だ。カリフォルニアの広大な大地に、線路という「鉄の触手」を伸ばすタコ——ここで私たちは、鉄道会社が激しくタコ扱いされたのは決して偶然ではなかったと気づく。鉄道網の拡大は、触手を伸ばすタコの姿そのものだ。独占企業の勢力拡大は、線路の拡張という具体的なモノと結びつき、本当にタコの姿になっていた。

カリフォルニアにおけるサザン・パシフィック鉄道の網(1891年)。タコである。
 ここに、恐ろしいものをタコになぞらえるイメージの一つの局地がある。『オクトパス』は当時非常によく読まれた小説で、また現在でも、アメリ自然主義文学を代表する作品だと考えられている。「独占企業としてのタコ」のイメージは、文学史上にも永遠に刻まれているのだ。

 こうしてサンフランシスコの地で、「独占企業としてのタコ」というイメージが確立した。そしてそのイメージは今日でも生き続けている。もしそのタコの姿を捉えたいなら、適当な巨大企業を選んで、「Octopus」(タコ)、「Monopoly」(独占)などのキーワードと一緒に画像検索をかけるだけでいい。恐ろしい触手をのばす現代企業の風刺画をすぐに見つけることができるはずだ。

地球を飲みこむタコ

 「独占企業としてのタコ」というイメージの伝統を、『MUTEKING』制作陣がどのくらい意識していたかはもちろんわからない。だが、ネオ・サンフランシスコの街と市民を暗黒化しながら勢力を拡大する巨大企業オクティンク社の姿が、触手を伸ばす恐るべきタコのイメージと何重にも重なっていることは、ここまでで示せたと思う。

 しかし、さらに考えたいことがある。『MUTEKING』は「宇宙人としてのタコ」と「独占企業としてのタコ」の「交差点」に立っていると最初に言った。だが交差点とは? 物語終盤、セオとオクティンク社は、「地球を侵略するタコ型宇宙人とその侵略拠点」という正体をあらわにする。そのことと、触手を伸ばす大企業のイメージはどう交わるのか。

 ここで特に注目したいのは、オクティンク社が建設したタワーから放たれる怪光線だ。光線はまず真上に放たれるが、上空で枝分かれして横に広がり、ドーム型の空間を形成する。そのドームは、まずはネオ・サンフランシスコを、そしてついには地球全体を覆い、人々や建物を飲みこみ黒く溶かしていく……この恐ろしい光景のなかで、怪光線が8本に分かれていることを見逃してはいけない! ここにはタコがいる! 8本の触手によって地球全体を飲みこむ巨大なタコ!

8本に分かれる怪光線(ep. 9)

 恐るべきサザン・パシフィック鉄道の触手はカリフォルニアを覆った。だが、オクティンク社の触手は地球全体を覆いつくす! 『MUTEKING』、とんでもないスケールのタコ・アニメである……

「急がないことだ」——名作の条件

 ところで、『オクトパス』の著者ノリスには、「名作」(masterpiece)とは何かについて論じた評論がある。長くなるのだが、最後にこの評論を引用したい。偉大な作家は未来を見通すという。だからぼくは賭けてもいいが、サンフランシスコ、そしてタコゆかりのこの小説家は、『MUTEKING』を観ながらこの文章を書いたに違いないのだ!

 急がないことだ。〔……〕巨匠の小説の、例えば最初の3分の1を読んでみよ。何も起こっていない、と君は思うだろう。人の移動、今後の計画、街、近所の人。急に事件が起こるが、意味がわからない。場違いな響きが聞こえる。それでも小説は続く。何も進んでないように見える。再び意味不明な響き。だが、今度は少しだけ理解できる。ここでもう、我々は物語にひきこまれている。新しい登場人物ではなくて、既に登場した人物が何度も何度もあらわれる。目の前の場面に登場していなくても、君はその人たちを思い出せる。2人のメインキャラクターにはますます親近感をおぼえてくる。この2人が活躍するちょっとした事件が続き、話の動きはまだゆっくりだが、君は徐々に2人のことを理解してくる。このあたりではじめてスピードが上がるかもしれない。わずかだが話に勢いがついて、これまで場違いだと思っていたあの響きが、話の進行にピタリとはまり、全体と調和して美しく響く。もうすべての人物が揃っている。舞台となる土地のことも君はすでによく知っていて、暗闇のなかでも迷わず歩けるだろう。ヒーローとヒロインも懇意になっている。

 さあ、話が加速してきた。状況は急に緊迫し、どちらを向いても危険信号だ。ずっと前、第1章にあったあのエピソード——今では、なぜそこにあの人が登場していたのかよくわかる——それが展開して急に前面に出てきて、話の本筋にぶつかって思いもよらぬ方向に進む。第2章のエピソードも、最近の出来事と合わさって予想外の影響を生み、メインテーマをまた別方向へ展開させる。こんな調子で話はますます速度を増していき、事態の緊張が極限まで高まると、一番はじめの段落からずっと準備されていた「主題」が突如として君の脳裏に閃く、あとは瞬く間に、爆発的な力と崩壊で問題が解決する、つまりはクライマックス、それは怒涛の勢いでページから飛び出し、君はあっけにとられ、息もたえだえ、圧倒されるばかりだ。そして、そこに名作がある。(Norris 1903, pp. 149–151.)


参考文献

  • Brown, R. M. (1991). No duty to retreat: violence and values in American history and society. Oxford University Press.
  • Caillois, R. (1973). La pieuvre: essai sur la logique de l'imaginaire. Editions de La Table Ronde. (塚崎幹夫訳, 『蛸:想像の世界を支配する論理をさぐる』, 青土社, 2019)
  • Choy, P. P. (2012). San Francisco Chinatown: a guide to its history and architecture. City Lights.
  • Hugo, V. (1866). Les travailleurs de la mer. Albert Lacroix. (山口三夫・藤原義近訳, 『海に働く人びと(上・下)』, 潮出版社, 1978)
  • Michelet, J. (1861). La mer. L. Hachette.
  • Norris, F (1901). Octopus: a story of California, Doubleday, Page.
  • Norris, F. (1903). The responsibility of the novelist: and other literary essays. Doubleday, Page.
  • Stangl, P. (2016). “Geographic and discursive wanderings of San Francisco's “evil” octopuses”, Interdisciplinary Literary Studies, 18(3), pp. 343–371.