柑橘類さんのブログ

ひなろじを見たりします

【随想】私の部屋に写真がない理由

昔から、日記が続かなかった。

三日くらい経って読み返すと、たった三日前の自分の考えていたことがなーんか嫌でさ。その三日間の日記をびりびりとやぶいちゃうの。でまた何日か経つと同じことをやるのよね。何が気に入らないか知らないけど。

いまもそういうのは治ってない。

先日、ハハがケータイをようやく機種変した。もう何年使ってるかわかんないやつで、ハハはSNSとかに写真アップする人なんだけど、その画質がもうひどいのね。じぶンとこの商品の宣伝にも使ってるんだからカメラ良いやつにしなよって何回か言ったんだけど、写真消えるかもしれないのがヤなんだって。結局水没して使えなくなったのがタイミングで、それでもデータは復旧できて嬉しそうだった。

私はと言えば、スマホ修理に出すのに「データが消える可能性が云々」を見もしないで書類にサインするタイプ。画像が飛んでもアニメのキャプが消えるくらいだし、仕事とかで重要なものはクラウドにある。つまり私のスマホにないのは、思い出とか記録とかそういうもの。スマホだけじゃなくて部屋にもない。日記もなければ写真もない。もちろん、ツイッターで毎日行動をつぶやいてるし、写真もアップしてるけど、全然「記録」っていう意識がない。コンテンツとして出している。コンテンツなので面白くないなと思ったらよく消す。

自分の人生を記録することにかなり強い抵抗感がある。理由を考えるといくつか思い当たる節があって、3つくらいあげようかな。

まず、記録を持ってるとケンカに勝っちゃうこと。流石に今はほとんどないけどさ、若いころって言った言わないあったなかったですぐケンカするじゃん。私は負けず嫌いなので、モメそうなことは結構記録してたの。いざケンカになるとそれを出すわけ。でもさ、こういう風にケンカに勝ってもいいことないんだよね。記録出されると相手はぐうの音も出ないからまあ勝つんだけど、そういう風にやりこめられた人ってかえって不機嫌になるじゃん。でもそれって求めてたことじゃないんだよね、私としては。自分が正しかったと認められて、その上で関係が元に戻るのを期待するわけでしょ。だから相手を不機嫌にしたまま勝ってもそれは負け。それで、ある時期から色々記録するのはやめた。自分の記憶も全然当てにしないことにして、私には私の不確かな記憶しかない、アンタにもアンタの不確かな記憶しかない、真実はわからないので痛み分けでこの話はおしまい! ってやるようになった。まあこれ言うとそれはそれで相手は怒るんだけどさ。ケンカはしないほうがいいよ。

次、これは私が長子だってことに関係してんだけど、昔実家を立て直すってモノ整理したとき、自分ら兄弟の子供時代の古いアルバムがいくつか出てきた。ただ、自分のアルバムと弟たちのやつで信じられないくらい厚さが違うの。自分のが3倍くらいある。なんとなくわかると思うけど、両親も初めての子供ってかわいいからパシャパシャパシャパシャ写真撮るのよね。写ルンですとかでね。でも二人目からは目新しさがないからそんなことしないわけ。これに気づいたときは心底イヤな気持ちになって、アルバム全部燃やしてやろうかと思ったよ。別に写真の枚数で愛が測れるなんて思っちゃいないけどさ。記録って全然公平中立じゃなくて、みんな自分が関心あることしか記録しない。でも一度記録されなかった側の気持ちになったら、あとは全部記録するか何も記録しないかの二択じゃん。全部記録するなんてできないから、実質一択。

最後三つ目、これはウンと高尚な話! ニーチェっていう哲学者いるでしょ。神は死んだってヤツ。あの人に『ツァラトゥストラ』っていう本があって、あれ読んだときすごい印象に残った節がある。これ。

時は戻らない。それが意志をいらだたせる。「そうであった」ーーそれこそ意志が転がせぬ石

哲学者の言うことは難しくてよくわかんないんだけど、多分ニーチェって人はあれするぞこれするぞっていう意志をもっともっと自由にしたくて、その足枷になるものをどんどん告発していくわけ。それで一番の足枷が過去なんだよね。もう起こっちゃったことは、今さらどうこうしようとしてもどうにもならないから。それはそうだ。じゃあどうしますかって、忘れるしかないよね。忘却。忘却だけが本当に意志を自由にする。だから「超人」のモデルって赤ちゃんなの。赤ちゃんはなんもおぼえてないから。今だけを生きてて、自由。痺れるね。過去のことを憶えているときって、もうできあがっちゃった品物が目の前に並んでて、じゃあ今からこれを使って何かしますかって感じ。悪くはないけど窮屈だ。でも記憶がおぼろげなら、そこにあるのは粘土。土の癖はあるけど、それをどういう形にするかは今の自分次第だ。さっきの話もそうで、ケンカが云々アルバムが云々ってなんとなくそういう記憶があるだけで、それを今解釈して記録嫌いの話にしてんの。昔からずっとそう思ってたなんて記録はございません。でもそれがないからこそこういう風に書くことができて、私はその自由を愛しているのです。

そういえば、日記書かない写真取らない記録しない、みたいな話を他人にすると、
「その瞬間その瞬間に感じたことを大切にするタイプなんですね」
みたいなことよく言われんだけど、ため息が出てしまう。その瞬間の感覚にこだわるのは、何か確かなものがほしい人の態度だ。で、その時その時の気持ちが確かで、後からの気持ちは確かじゃないんだって。全然わかんない。昔どうでもよかったことの意味に後から気づくみたいな体験ってよくあると思うけど、それって「嘘」とか「不誠実」なのかしらん。ともかく、私は確かなものはいらなくて、不確かなものだけがほしい。今、自分の過去を何度でも何度でも新しく解釈したくて、その時に記録は邪魔なのだ。

そうそう、もしかしたら記事タイトルで気づいた人がいたかもだけど、最初の2段落は内田春菊の『私の部屋に水がある理由』からの引用。内田の話をしたことはあんまりないけど、自分にとって大切な作家の一人だ。ついでに4段落目で母親のことハハって書いてるのはだいぶ昔からだけど冬目景の影響。ハルちゃん。エッセイみたいなの書くときはこうやって随所で引用をカマして文章を縛って、自分の思考をそのまま記録しないようにしてんの。小癪だね。